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| 2001年12月31日『大晦日』 |
この歳の大晦は珍しく大雪だった。
付添婦さんは院内の風呂が無いので、銭湯に行くと明るい内に出て行った。
9階の窓から深々と降る雪を横目で睨みながら、 首の切開で点滴に縛られ、腹部の切開部にも管が入り
ブージュが入っていては身動き一つ出来ない。口からあふれる痰をティシュでぬぐうのがヤットの仕事。
水 一滴も入らず、これが生かされていると言う事かと心に浸みた。
やがて夕方には、妹からおせちの折が届く。私の為では無論無い。
付添婦さんはとても喜んで横のソフアーで美味しい 美味しいと食べている。
食べ物の恨みは根が深い。この時ばかりは今畜生と叫びたかった。
我慢と忍耐の優等生の患者の死闘が、ここから始まるのである。
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| (上記は入院時のベットサイドの仕分け袋です。小物を取り出すのにとても便利です。) |
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| 2002年(平成14年1月)『付添い人と足の裏』 |
意識朦朧の中、腹部の管 首からは血管の切開で点滴の管が入り、ブージュの挿入で身動きも出来ない。
頼りになるのは、24時間 傍らについてくれる付き添いさんと先生と看護婦さんだけ・・・・
管から出切らない体液が痰となって咽喉に絡みつく。一日の多い日は一箱のティシュでそれを拭い取るのが
私の唯一の仕事。
その内 薄紙を剥ぐ様に少しずつ楽になるにつれ、付き添いさんの鼾が耳につき何とも言えない私のストレスの
原因となる。
水も飲めない私の横で、バリバリと噛むお新香の臭いと音が鼻を突く。
一ヶ月以上絶食で点滴だけの私のストレスは三度の食事をベットの横で食べられるだけで無性にむかついた。
生きるか死ぬるかの境に置いても食い意地だけは残っているらしい。
髪につけるヘアースプレイの臭いも何も無い胃の嘔吐を誘う。
単純な毎日 洗濯物は妹が持って帰ってしてくれるので、何もして貰う事も無く、只 鼻を突き合わせて、
狭い部屋に閉じ込められる毎日。
その内 管が一本ずつ取れていく。最後の点滴の管を抜く時には、心細くて先生にもう一日 も少し食べられる様に
なってから抜いてとせがんだりした。
回復につれ、彼女の動作を細かく観察するようになる。
朝起きると嫌と言うほど歯磨きをする。八時が来ると下の売店に新聞を買いに行く。
ワサワサと一渡り新聞に目を通す。何を見ているの?と尋ねると、昨日の株の相場を観ているそうな。
付き添いさんも株の取引をするんだ・・・・此処に居てどのように取引するんだろう?と不思議に思えた。
寒い時だったので、9階の病室の窓の外にぶら下げている、冷蔵庫代わりのビニール袋から食べ物を取り出して
ひとしきり食べる。美味しい 美味しいの声がこれ又私の勘に障る。
今度は布団の上に足を上げ、何かしらパチパチと抓む音がする。
何日かして、気に懸かるので、ソート覗いてみた。
何をしているのと聞くと、足の裏の胼胝が痛いから抓んでいるとの事、見ると傷になって血が出ている。
足の裏を突いて歩くのが痛いと言う。それも一つでは無い。あちらにもこちらにも両足の裏に沢山ある。
そんなに成っているのを傷つけると黴菌が入るから、傷を治すのが先決よ アクリノールをガーゼにしませて
油紙でおそい包帯をして傷を治したら歩けるよ といらぬお節介をする。
時間をもてあますからか、爪も毎日深爪をしている。
サンダルのつま先の開いた、かがとの高いのを履き、細菌だらけの病院の床にさらけ出している。
足が痛い、腰が痛いと所中つぶやく。 付き添いも大変な仕事だと思う。
私は余り文句を言わず、なるべく我慢して自分でする様にしていたので、付き添いにしてみれば、とても看やすい、
おとなしい患者なので、帰り際には、又 貴女が悪くなったら看てあげるから、指名してくれるようにと頼まれました。
そして帰ったら、近くの外科へ行って胼胝を切除して貰うと言って居られました。
その人は帰って半年も経たない内、調子が悪くなり、ヤット見つけたその病名は脊柱の裏に腫瘍が在ったとの事、
切除して抗癌剤を使われて髪の毛も抜けてしまわれたとか。その内 転移して、又 入院されたそうな。
ああ 私は逝く時 誰が看てくれるのでしょうか。考えると倒れちゃいられない。
追伸
足の裏の胼胝と癌との関係は私の知る処ではない。
脊柱を支えて二本の足で歩く人間は永い間の足の裏の支えが脊柱に又内蔵に与える影響は大なるものがあるに
違いないと確信している私である。
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| 2002年平成14年1月『退院』 |
点滴をぶら下げてゴロゴロ押しながら9階の廊下を三週するまでに回復した。
何時も付き添いさんは儀仗に私の歩数に合わせて歩いてくれた。
西休憩所から眺めるとすぐ鼻先に私のマンションが見える。
私は生きて帰れるのだろうか?帰ってから一人でどのようにして生活して行けるのだろうか?
不安一杯で、それでも時間は容赦なく過ぎ去って行った。
退院間際に先生に呼び出された。そこで初めて私は自分の切除された胃の写真に対面した。
先生 この二枚目の写真はなんですか? これは裏側の写真です。
ヘー 裏まで突き破っていたんかなー 声も無く生唾を飲み込んだ。
腹腔液にも漏れていて、リンパも取れるだけ取って置きました。腹膜の癒着は全部剥がせず、
上一回りはがして置きました。余り芳しい答えではないけど、今更どうにもならない。
最近になって私の耳に入った言葉、手術後の報告では約二年は持つだろうとの事だったそうな。
どうりでベットの上から覗く顔は誰も無言で哀れみに満ちた眼差しだった。
帰ってからも殆ど寝たきりの状態が続きました。週二回ヘルパーさんのお世話になり、一年間 妹が
食事を毎日 運んでくれました。 感謝! 感謝!
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| 2002年平成14年4月『ツバメの子』 |
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ツンツン燕の子供と同じ
お口を開けてエサを待つ
自分でなんか作れるもんか
運んでくるのを待っている
毎日同じが又うれしいね! フ フ フ・・・・
父さんツバメのアンヨが弱く
母さんツバメは二人前
右往左往と飛び回る
それでも私は羽ばたけ無いよ
巣立ちの時がくるまでは! ウッ フゥフゥ・・・
今日が巣立ちか 明日にしよか
やがて自立の日も近い
赤い夕焼けあかねの空へ
自分の翼で羽ばたいて
遠い宇宙の果てるまで一直線に飛んで行け・・・
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| 2002/(平成14年8月)『再入院』 |
こんな筈ではなっかたのに・・・
調子はいい方ではなかったが、辛うじて自分の管理をしながら生活をしていました。
早く元気になろうと暑い時にもかかわらず、肉に糸こんにゃくと野菜を入れすき焼き風にして夕食を食べたら、
夜 8時頃からお腹がシクシクして様子がおかしい。妹に連絡して10時過ぎまで様子を見たが、嘔吐しそうで
熱が出て、腹痛は止まらない。とりあえず身の回り品を持って、T病院の救急へ連れて行って貰う。
又 腸閉塞の疑いで 速 再入院。 17日間の入院となりました。
今度は相部屋でそれなりの気使いに悩まされましたが、如何にか再手術は免れたが、小腸の検査でぐんと草臥れて、
36キロまで痩せ骨と皮になり、歩くのもヤットの状態になりました。
点滴が入らず、血管が細くもろいので、一日の内、何回も差し替えて貰い看護婦さんを悩ませました。
この度は用意していた寝巻の脇開き、下着の肩開きがとても役に立ちました。
手に点滴を刺したまま着替えが出来るということはグッドアイデアだと思いました。
こんにゃく 糸こんにゃくはそれ以後一切口にしない事にしました。閉塞を起こした腸は完全には戻っていない
事を肝に銘じて生きていく事にしました。
もし 術後余命2年位と聞いていたら、もう少し日々の生き方を考えていたかも知れませんが、何も出来ない状態で
それを知る事は酷な事かも知れません。告知の問題は私だけでなく、家族にも重くのしかかる問題だと思います。
相変わらず退院後も微熱を繰り返し、一進一退を繰り返しながら、9月に入り 外は早くも秋の気配が迫りました。
借景の鶴形山も 色づきて
秋風そよぐ 遂の窓辺に
胃の丈に合わせて刻む 秋野菜
すり身のサンマ 食卓にのる
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| 2003/(平成15年8月)『蛍の宿』 |
蛍の宿は小高いマンション
彼方此方ビルの窓明かり
夕暮れ時には灯をともす
なのに我が家にゃ灯が点かぬ
主が居ないと寂しいと
ポツン ポツンと視え隠れ
あっちの水は苦いがいぞ〜
こっちの水は甘いぞ〜
幼いときに川岸で
かわにな食べたあの川は
今は護岸で固められ
周りの草もなくなった
帰る家無き故郷は
都会のビルに窓一つ
よしの髄より天のぞく
今宵も夕闇迫る頃
ほ〜ほ〜 蛍は灯をともす! |
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| 2003/9(平成15年9月)『ママチャリが来る』 |
決して体調が安定したわけではないが、調子のいい日には少し外に出て歩けるようになりました。
介護用手押し車で街に出ました。なんとT百貨店の中は段差だらけで自分が歩くのが精一杯の私に取って
手押し車はお荷物でした。バリアフリーは家の中だけではなく、街中に危険が一杯待っていました。
人にお願いして何度か車を移動して頂きました。なんと歩くと言うことがこんなに大変な事かと痛感しました。
ママチャリが古く成ったで新しいのを購入しました。
サドルに腰掛けて足の届くサイズを求めて、やがて生活範囲がそれなりに広がって行きました。
物が持って歩けない私に取って、押して歩くだけでも大変助かりました。
ある日 近くの朝市へ行き、人塵に押されて前に倒れた瞬間、胸に痛みを感じ、シップを貼って消炎剤を飲み
寝ていたのですが、何日たっても良くならないので、外科へ連れてってもらいますと、肋骨に二本ヒビが入っていました。
以後人中へ出ることは禁じられ益々引きこもりになりました。
家にいて、寝ている時間以外はパソコンを思い出し少しいじったり、テレビ番組を見ながら
勉強したい気持ちになって来ました。
相変わらず皆さんのお世話になりながら、少し先のことを考える様になりました。
そしてこの歳も暮れようとする頃、術後満2年を無事迎える事が出来ました。
検査の結果はマーカーも安定した数値を示していた事がせめてもの慰めでした。
何も知らされていない私は段々良くなって行くだろうと、希望的観測を持つようになりました。
下の写真は私のベットの枕元のカバーです。普通のリクライニング一人用のパイプのベットです。
例の如く袋をたくさん作り、寝たままで大抵の物は手を伸ばせば用を達し、狭いベットの上になるべく
物を置かないように考えました。 テレビを見るたびに頭をもち上げるとベット上のものが音を立てて
下に落ちるからです。ベットサイドにも取り付けました。
防護柵には当たっても冷たくないようにカバーを縫いました。 |
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| 2004/4(平成16年4月)『二代目パソコン購入』 |
ウインドウズmeのフリーズに悩まされていた矢先、将来 家の中で出来る事を目標にXPに買い替えました。
解らない事は人にお聞きしたり、本を読んだり、何時の間にか生きがいに成っていきました。
その間にも熱を出したり、帯状疱疹に懸かったり、動けなくなってもう駄目かと思う事も何度かありました。
その度にこれより辛かったことも在ったと術後の事を思い出しました。
駄目で元々 明日よりも今日を大事に生きようと思う様になりました。
T病院の胃癌患者の生存率は五年で50%です。せめてその中には入りたいと願っています。
相変わらず生活範囲は狭く、殆ど家の中、どうすれば上達できるかと考える様になりました。
そして二年後の現在に向かってホームページを立ち上げる事を目標に一歩ずつ進む事にしました。
その道のりは思ったより遥かに蛇行して遠いものでした。
そろそろ独り立ちの生活が曲がりなりにも出来る程になりました。
ヘルパーさんの手からも離れ、毎日の食べ物も自分で考え、半分は近所のお惣菜店で買い食いの毎日が
始まりました。
この頃から市のパソコン教室にこわごわ顔を覗ける様になり、面白味を覚えてきました。
矢張り体力的に無理なのか、何でも無いのにママチャリで良く転びました。でも誰にも言わず寝る事が多くなりました。
何もしないでも月日は流れて行きます。限られた命の果てる時は何時かは来るのです。
どっぷりと腹を据えて行ける所まで行こう。こうして残り時間との戦いが始まりました。 |
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| 2005/4(平成17年4月)『教室に通う』 |
4月の開講を皮切りに絵手紙とパソコンの講習に一年通う事にしました。
基礎もない私が何をしようとしているのか?自分でも解らないまま、脇腹を押さえながら通いました。
気が付けば喜寿になっていました。何かに駆り立てられながら、とりあえずホームページに乗せるものを
纏めねばと思い、パソコン画 墨絵 デジタルカメラの写真の処理の仕方、ホームページの開き方、
矢次早に入らぬ頭にとりあえずインプットしていきました。
ホームページ上の参考になるものを手探りで探しました。
知識も 体力もない年寄りがこれでホームページが開ける程 甘い世界ではありませんでした。
でも 最後はどうしてもやりたいと言う根性だけが頼りでした。
年末に近い頃 頼りにしていたパソコンがふとしたことから言う事を聞かなくなり、ニッチもサッチも使えなくなりました。
これを直して頂くのに3ヶ月係り、どうにか初期化で使えるようになりました。
私の体と一緒 一度壊れたものは如何にか なだめなだめ使っています。
歳が明けて平成18年 早く早くと急かせながら 先生のお世話になりつつ3ヶ月、悪戦苦闘の毎日が続き、
4月の半ばにようやくオープンにこぎつけました。
体の方も極度の疲労を抱えながら、安堵の気持ちに支えられてホットしてをります。
何時まで続くか寿命次第、出来る事を少しづつ 私らしくやって行きたいと思っています。
どうぞ皆様 私の夢芝居を見守って下さいます様 お願い申し上げます。
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| 2007/4(平成19年4月)『術後5年の検査』 |
月日は流れて 早 5年 中央病院の胃癌生存率50%を無事クリアーするかどうか?
気にしていましたが5ミリのポリープも別に悪性のものではなく経過を見ようと言う事になりました。
先ずは一安心 新規一変 第3の残された人生を”我が道を行く”決心をしました。
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| 2008/2/7(平成20年2月『胃カメラを呑んで』 |
早いもので術後6年も無事通過しました。
昨年のポリープが一年経ってどうなったかと気にしていました。
久しぶりに胃カメラを呑み矢張りポリープは消えては居ませんでしたが、別に心配するものでは無いとの事。
もう カメラも呑むまいと決めました。
気にして生きるのも毎日がしんどいので、在るがままに過ごすのが一番だと思いました。
それより空気を入れられた時、お腹が張る以上に痛かったので、腸の心配をしなければと思いました。
別に安心も無くゴールに一歩づつ歩んでいきます。 |
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| 2008/9/3(平成20年9月3日『再び改造を思いついて』 |
今年の夏は思いの他暑かったのと歳を取った精か2度ほど足が立たなくなりました。
トイレに行くにも這って行く始末。今後の生活を考えて寝室とトイレの段差を無くしようと思い最後の改造をお願いする事にしました。10月に入るとして頂けると思いますが、一室だけ残っていた4畳半をフローリングにしてベットを入れ替えようと思っています。
出来上がったら一日でも永く自適の生活が出来れば良いがと思っています。 |
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